誰かのために生きることで、幸せになれるのだろうか。
こんにちは。どんぶらこ太郎です。
今日も流されて生きています。
突然ですが、みなさん「誰かのために」生きたこと、ありますか?
私はありません。
ずっと「自分のため」に生きてきました。
これからもきっと、本質的にはそうなのかなと思います。
ですが、最近、私にも自分と同じかそれ以上に大切だと思える存在ができました。
妻と、馬です。
今日は、自分以外の誰かのために生きることは、幸せになれるのか、考えてみたいと思います。
自分のために生きるのは孤独?
28年、ずーっと自分のために生きてきました。
「誰か困っているひとの役に立ちたい」
そういったことは一切ありませんでした。
とにかく「自分」
「自分」以上に大事な存在はいない
そんな感じでした。
けど、さいきんふと思ったんです。
「自分」のために生きるって、もしかして孤独で辛いことなのでは?
いや、誰かのため、とかいっても、けっきょくは「自分のため」なんだとは思いますよ。「他人を助けるためにこの世に生まれました」なんてマザーテレサ級の存在、ごく一般人の私にはとてもじゃないですがなれません。
28年間ふりかえったとき、人生の中心にいたのは、常に自分でした。
自分を中心に回る世界。
それは逆にいうと、誰も入り込むことのできない、孤独な世界なのだと思います。
頑張るのは自分のため、生きるのも自分のため。
そんなひとり相撲のような孤独な闘いに、心が枯れていく感覚すらありました。
最終的には自分のためだったとしても、どこかに「誰かのため」がないと、自分という存在を保てないのではないかと思います。
誰かのために生きると、世界が広がる
「なにより大切な存在」ができると、そのひと(他者)のおかげで、自分が存在できているような感覚になります。
しらずしらずのうちに、いろいろな場面で助けてもらっているな、と感じられるからでしょう。
すると、他者の存在=自分の存在、という図式がでてくるのです。
するとなにがおこるか。
いままでは、「自分の人生」=「自分ひとりの人生」だったのが
「自分の人生」=「大切な他者もふくめた複数の人生」になります。
大切な誰かの人生は、ほぼそのままイコール私の人生です。
すると、いままでひとり分の世界しかもたなかった私の人生が、ふたり分、さんにん分…とその幅を広げてゆきます。
大切な存在の数の分だけ、私の人生に吸いも甘いも返ってくる
「大切な誰かの人生=自分の人生」ですからね、その「誰か」の人生が幸せになれば、自分の人生も幸せになれると思うんです。
例え話ですが、ひとりの人生で受けとれる幸せの量が100だとします。
ふたりなら200、さんにんなら300。
さんにん分の人生がそのまま自分の人生なら、300までの幸せを得ることができます。
逆をいえば、さんにん分の不幸も自分の不幸です。
そんなイメージなのかなと。
タイトルを踏まえてまとめてみます。
誰かのために生きるということは、複数の他者の幸せが、自分の幸せと同義になる。不幸もまたしかり。
つまり、「誰かのために生きる」=「何倍もの幸せ・不幸せを得られる」ことなのではないでしょうか。
なので、誰かのために生きることで幸せになれるというよりも、自分のためだけに生きるより、より多くの幸せを感じるチャンスがある、という話なのかもしれませんね。