「本当の自分」を探している人に読んでほしい本2冊。自分探しはやめよう。

donburako/ 11月 14, 2017/ 人生論, / 0 comments

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こんにちは!永遠のモラトリアム、りゅっぴー(@donburakotaro)です。

「自分のやりたいことがわからない」「本当の自分ってなんだろう」なんて考えている人、結構多いんじゃないでしょうか。私もずーーーーーっとこの問いを繰り返しては悩んできました。結局答えは出ず、どうなりたいか・どうしたいかわからないまま、時間を流れるのを傍観するしかない。そんな状態にとても苦しんできました。

今日はそんなときに出会い、私を救ってくれた2冊の本を紹介しながら、あれこれ生き方について考えてみたいと思います。今でも答えは見つからない(そもそも答えなんてない)のですが、私の悩みを軽くしてくれた本です。自分に固執しすぎていたことに気づかされました。

「迷いながら 生きる/ネルケ無方」

「困難な成熟/内田樹」

※前半は「迷いながら 生きる」、後半は「困難な成熟」を引用しながら考えをまとめていきます

 

はじめに

 

「自分らしい人生を歩んでいる人が勝ち組」

 

今の時代って、こういう風潮ありませんか?「レールに縛られず好きなように生きているオレ、カッコイイ。」みたいな。逆に、ただレールの上を流れていく人生なんて負け組同然と。
自分なりに歩むべき道筋を見つけられる人はいいんです。けど、多くの人は、そもそも「自分らしさってなに?」とか「自分がやりたいことなんてわからない」ってところで、つまずいているのではないでしょうか。

かつての日本は、「住宅すごろく」などに代表されるように、あらかじめ「幸せの型」がある程度決まっていたと思います。みんな同じようなゴールに向かってまっしぐら。人生の筋書きがあった。だから、自分の人生に迷う人なんていなかった。迷う暇があるなら、とにかく働け、と。

けど今の時代はどうでしょう。そんな「幸せの型」も「人生の筋書き」もありません。すべて自分で決めていかないといけない。白紙の台本を、イチから埋めていかねばならない。そのくせ主人公は自分ということだけが決まっている…。そしたらきっと、この主人公=自分は一体どんな人物で、どんなストーリーにすればハッピーエンドになるのか考えちゃいますよね。こうして「自分探し」がはじまるのだと思います。

ところがこれが大きな落とし穴。《自分》というものは、追えば追うほど逃げていく幽霊みたいなものです。いつまでたってもつかまらない。なのに追わずにはいられない。この無限ループに閉じ込められ、視野狭窄になってさらに自分を見失う。こんな経験、誰にもあるのではないでしょうか。

2冊の本は、そんなアナタの視野を広げ、《自分》に対する見方をきっと変えてくれると思います。

 

そもそも本当の《自分》なんて存在しない(迷いながら 生きる)


「迷いながら 生きる」の著者・ネルケ無方さんはまず、そもそもの《自分》というものについて問いを立てます。「自分探し」をするにも、「本当の自分」を見つけるにも、アナタが探しているその《自分》とは一体なんなのかを知らねばなるまい、ということです。本では、「西洋哲学」「心理学」「仏教」の3方向から考えが進んでいきます。長くなるので要点と結論だけ書きます。私の超訳的なところがあるので、変な解釈入っていたらごめんなさい。

「西洋哲学」

語られる《自分》があまりに抽象的な概念すぎて、実生活の《自分》とはかけ離れている。なのであまりハマりすぎないように。

「心理学」

生身の人間に光をあてている。《自分》や「自分探し」は心理学的にどういうことなのか書かれている。
フロイト:人間の精神は「自我」「超自我」「無意識」の3つからなる
エリクソン:人間の発達段階に応じて異なるアイデンティティが芽生える
マズロー:「自己実現」が人間の最上の欲求である

エリクソンを例に、《自分》は一生涯かけて問われ続けるものであると著者は言う。マズローの自己実現欲求も、達成したらまた「何か足りない」と思うだけだと言う。

「仏教」

あらゆる物事には実体がない(=無常)、だから《自分》にも実体がない。加えて、《自分》は物質・非物質問わず無数の要素が織りなすもので、宇宙の中の一切の存在とつながっている。(=無我)そのつながりの中でしか、《自分》は生きられない。

以上を踏まえてネルケさんは、こう言います。

・・・《自分》というものが、どこかに潜んでいるわけではないということが分かりました。
《本当の自分》というものは幻にすぎません。あるいのは、《自分》を含めた世界全体です。その世界に目を向けないで、ありもしない《本当の自分》を探し続けることははっきりいってしまえば幼稚です。逆にいえば、本当の自分になるということは、世界とつながること、大人になることを意味します。

 

最終的に、かなり仏教観の色濃い結論になっています。ネルケさん自身が僧侶なので、当然っちゃ当然なのですが。
私なりに解釈すると、《自分》という独立した存在はいなくて、周りとの《関係》によって成り立つもの、あるいは《関係》そのものだから、《自分》だけ見ていても「自分探し」にはならないという感じでしょうか。自分自分と、《自分》に執着しても、《自分》の一部分しか見えないんですね。

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まずは《自分》を手放すことが大事(迷いながら 生きる)

ではどうしたらいいのか?ネルケさんは、悟ることを例に出します。

悟るということ、それは今ここで、この自分がしなければなりません。しかし、「悟ろう」といくら思い描いても、悟れるわけがないのです。悟りを忘れて、自分を手放して、足元の現実に目を向けたそのときに初めて、悟りが実践されるのです。本当の悟り、それは手放しだったのです。

 

そして、自己を実現することも同じだと言います。

《本当の自分》があらかじめ用意されていて、それをつかんで、実現する・・・、そういう話ではないはずです。そんな《本当の自分》など、最初からどこにもないのです。自分が今ここで作り上げるにしても、作れるわけがありません。《本当の自分》という幻想を忘れて、やるべきことをただやる、そのときに初めて本当の自分になれる・・・、そういうからくりではないでしょうか。

 

「自分探し」をしないことが、《本当の自分》にたどり着く一歩になる、というのはなんだか不思議ですね。

さて、今までにいくつかキーワードが出てきました。世界(他者)に目を向けること、大人になること。手放すこと、やるべきことをただやること。・・・ではここで少し「困難な成熟」に舞台を移し、<具体的にどうすればいいのか>のヒントを得てみたいと思います。

 

「やれることをやる」ことで「大人」になれる(困難な成熟)

「本当の自分」や「やりたいこと」は一旦脇に置いておいて、まずは「やれること」に注目してみます。それが手放すことへの一歩なはず。「困難な成熟」の著者・内田先生は、「やるべきこと(当為)」「やりたいこと(願望)」「やれること(可能)」のうち、動詞に「可能(やれること)」の助動詞をつけて話すのが「大人」だと言います。これは一体どういうことでしょうか。

内田先生の言葉を拝借します。

「自分がやらねばならぬこと」「自分がしたいこと」というのは個人的なことがらです。それに対して「自分にできること」は公共的なことがらです。

 

「当為」と「願望」を成り立たせるのは、私念です。(中略)当為がめざすのは「自分に対する期待を自分で達成すること」です。願望がめざすのは「自分の欲望を自分で満たすこと」です。(中略)でも、「可能」はそうではありません。

 

「私は英語が話せます」という能力の申告は、「誰か英語が話せる人いますか?」という求めがあるところでしか意味をもちません。
まず「ニーズ」が示され、その後に「可能」分は発語される。(中略)ニーズがないところで「私ができること」を列挙しても、それは空語です。

 

面白いですよねぇ。内田先生はわかりやすい例も挙げています。

目覚ましが鳴ったときに、ベッドの中で「さ、起きなくちゃ」とか「ああ、もっと寝ていたいなあ」というような言葉をひとりつぶやいても、それはきちんと意味を持ちます。(中略)でも、目覚ましを聞きながら「私は朝の六時に起きられます」と言い切るというようなことは、ふつうしません。変だから。誰も聴いてないから。意味ないから。

 

そして、「大人」と「子ども」を分けるものについてこう説明します。

「大人」というのは、自分が何ものであるか、自分がこれからどこに向かって進んでゆくのか、何を果たすことになるのか、ということを「自分の発意」や「独語」のかたちではなく、「他人からの要請」に基づいて「応答」というかたちで言葉にする人のことです。

 

「○○したい」とか「○○しなきゃ」など独り言の形でしか語れない、つまり、他者との関係を無視してあーだこーだ言うのが「子ども」で、一方「大人」はかならず他者を含めた語りをするということだと思います。そしてさらに面白いのはここからです。

 

民話の主人公のように生きなさい(困難な成熟)

この見出しは「困難な成熟」に書かれた小見出しをコピペしました。昔、ロシアのプロップという学者が、ロシア民話に共通する構造を発見たそうです。それは、どの物語もかならず「家族の誰かがいなくなる」ことからはじまるということ。当然、家族は見つかることを願いますよね。その後ではじめて登場するのが「主人公」だそうです。

・・・みなさんにぜひご理解いただきたいことは、主人公は「家族の誰かが欠落して悲嘆にくれている場」に通りかかるまでは何ものでもない、ということです。
どんな人間的特徴をもち、どんな能力を持っているのか、物語では何も語られません。だって、存在していないから。

 

助力に応じないで、「あ、ちょっとオレ、『自分がやらなければならないこと』や『自分がやりたいこと』があるから」とすたすたと通り過ぎるものは決して「主人公」にはなれない。そういうことです。

 

この「主人公」という言葉は、すなわち《自分》でもあります。
おっと、なんだか「迷いながら 生きる」と話がリンクしてきましたね。

要は内田先生も、《自分》なんて最初からどこにも存在しない。他者の求めに応じた結果、はじめて《自分》が現れてくる、と言っているのだと思います。だから「自分探し」をすることは無駄なのでしょう。

 

まとめ

さて、今までのことをおさらいします。

(1)まず、今の時代は、自分で人生の筋書きを書いていきゃなきゃならない、だから「自分探し」もするし、悩む。そして自分を掴もうとすればするほど、余計自分がわからなくなる、ということを書きました。

(2)そこで思考の転換として、ネルケさんの本を参考に、「そもそも『本当の自分』なんて存在しないのでは?」ということや、「自分を手放すことで自分が手に入る」というようなことを考えました。

(3)自分を手放すためのヒントとして、内田先生の本を参考に、「やれることをやる」「他者の求めに『できます』という形で応答する」という在り方・生き方について言及してみました。

 

<ここで私なりの考えをすこし>

「やりたいことがわからない」「本当の自分がわからない」という人は、「誰かのために自分の能力を使う」ということをしてみてはいかがでしょうか?何も特別なことでなくていいと思います。対象が人間でなくたって構いません。

例えば私は今、馬のお世話をほぼ毎日しています。馬は、私の存在なしには生きていけません。内田先生的に言えば、私は日々、馬からの求めに応答しながら生きているということになります。そうやって生きている間、私は「無我」らしきものを感じます。自分への執着が消え、馬という他者とのつながりを覚えるというか。この感覚が、自分を知る一歩なのかなと思います。

 

さいごに、ネルケさんのこの言葉で締めたいと思います。

「考える、迷う、試行錯誤を繰り返す」
(中略)考えること、迷うことこそ青春です。じーっと立ち止まって迷うのではなく、暗闇の中を探りながら、一歩一歩踏み出しながら迷うことです。

 

悩むことはいいことです!悩みがあるからこそ、きっと人生と呼べるんでしょうね。

 

終わり

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